テキスト > 絵画サークル展 > 梅津庸一「齋藤祐平、亜種、工夫、正統〜絵画サークル展によせて〜」

[EXHIBITION]

『絵画サークル展』
会期:2014/05/01(木)〜05/05(月・祝)
会場:阿佐谷ぶらっとりー(阿佐谷地域区民センター)
開場時間:13-20時
参加者:穴水静、金本聖一、齋藤祐平、妹尾穂香、都村等、羽田功介、村尾泰法

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齋藤祐平、亜種、工夫、正統〜絵画サークル展によせて〜

執筆 :梅津庸一

*2014年5月8日


絵画サークル展に先行するものとして真っ先に浮かぶのは1998年に開催された小沢剛による「ワンマングループショウ 岡本一太郎、岡本二太郎、岡本三太郎、小沢剛の作品展」( オオタファインアーツ・東京)だろう。絵画サークル展とこれが一体どのように関係しているかに関しては諸事情により説明できない。残念ではあるが、説明できないその理由にこそ、この企画の肝がある。しかし他に語るべきことはある。

齋藤の作品は様々な図像や素材が入れかわり立ちかわり現れる。不要になった木片や板、などを組み合わせ、手を加え作品化する。コラージュやアサンブラージュのような手法が多く見られる。齋藤の活動は作品単体よりその総体、企画、行為にスポットが当たりやすい。これには理由がある。わたしなりの考えを述べようと思う。

齋藤の作品は紙や廃材や安価な素材や既製品が使われる。そしてたいてい描きが加えられ、それは造形物になる。作品に共通して流れている雰囲気は齋藤が好きだと公言する大竹伸朗のエッセンスである。カルピスの原液を水で希釈するように齋藤自身の感受性とブレンドしてアウトプットされる。それにより、大胆な絵の具のストロークやコラージュのコンポジションもどこか没個性的で匿名的になる。そして平面作品、オブジェ、展示全体に共通するのは水平、垂直が頻繁に現れることである。つまりは「四角形」が多い。それは素材自体の四角が目立つということと作品の中にも四角に対応した斜線や曲線、または四角の中にたくさんの四角が構成されていたりするからだろう。展示会場でドローイング等がグリッド状にきちんと並べられることも関係している。貧しさは豊かさだと言い換えられそうな表現主義的な齋藤のジェスチャーはカリカチュアのように形式化されており、生の表現として前景化してこない。いろんな印刷物が貼られていたり、絵の具も塗るだけでなく、垂れたり、散らしたり、シルクスクリーンで刷られたりと多彩な表情を持っているのに、段ボールに印刷された図柄や古いポスターのようにうまくものに馴染み主張してこない。そして古くも新しくも感じない。物としての存在の方が強く感じられる。そのカリカチュア化の手捌きの巧みさこそ齋藤の美術や様々な表現からの学習と鍛練の成果だろう。そして、齋藤はいわゆる美術館やギャラリーのホワイトキューブ的な空間ではなく街中の路上や空き店舗といった普段は美術の展示会場ではない場での活動が多い。このゲリラ的活動は美術という制度に対してのアンチという見え方はしない。

ポスト印象派の頃に生まれたホワイトキューブという空間は、それ以降美術作品をニュートラルに鑑賞するには最善の場所であった。しかし近年ではそのマジックが綻びを見せはじめている。アートの世界的な動向として脱ホワイトキューブ的な動きがあるというよりは、ギャラリーで言えばただの商談用のショールームになってしまっていたりする。また美術以外のものをホワイトキューブに陳列することで美術の世界を押し広げようとする動きもあるが、結局は素朴な意味でホワイトキューブマジックの効果のテストをしているに過ぎないことが多い。日本においてはホワイトキューブに根をしっかり張れているとは言い難い状況と、定期的に繰り返される地震により不安定で暫定的な土地にコンクリートの基礎をうち建てられた建物の中にいくら真っ白なペンキで綺麗に仕上げた四角い部屋を作っても、たとえそれがどんなにメンテナンスが行き届いていたのだとしてもペンキの下にはベニヤ板や石膏ボードが隠れている。そう、所詮仮設の空間であることを皆無意識のうちに共通認識として刷り込まれているような印象をうける。そんな状況下では安置された作品の価値も絶対的なものとは到底思えない。こうしたことを考慮しているわけでないにしても齋藤がギャラリーの外で紙や建築資材の端切れを使うことはとても興味深い。そして、そういった美術の表現のための場でなくても十分に美術的にみえるのは、先ほど言ったように、作品やそのディスプレイの仕方に四角の構造とカリカチュア化された表現の断片が頻繁に登場するからである。したがって、齋藤の作品を齋藤自身の生き様やコミュニティーと切り離して考えることで、思った以上に美術的、構造的であることに気づく。それは齋藤に近しい、一輪社、福士千裕、二艘木洋行、内田百合香、もんだみなころ等との明かな違いでもある。

また、美術予備校に通いその後、美術大学で何の疑問もなく絵を描きそのまま卒業してもそれをなんとなく信じ続けている作家とも全く異なる。齋藤が作品を展示するには一見過酷な環境に晒せるのは作品がどんなに造形的に未完成のようにみえても危なげなく作品として成立しているからであり、そういう環境こそが齋藤の作品にとってうってつけの生息環境であるからだろう。齋藤の身体がものに関与することによって生まれる作品の生成と構築はぶっきらぼうでやや不感症ではあるがサービス精神旺盛である。齋藤の作り出すものや空間は様々なところで展開されるが、鑑賞者には自由に感じてほしい。という思考実験の域を出るとき齋藤作品の意味は変わってくるだろう。齋藤の生み出すガジェットが適材適所に配置されない時その品々のルーツとそこに宿る「造形」が回答を示すだろう。齋藤の作品、活動の表面的な工夫や機転の良さや胡散臭いユーモアを黙殺し、この表現の瓦礫を直視することが必要である。

小沢剛が先端表現のために「造形」を使う作家なのだとしたら、齋藤祐平はただの末端の生活者のふりをした、表現の内側を組み替えられる可能性を持つ工作員である。
わたしは齋藤の作品を自分のベッドの下に収蔵したい気持ちになっているが、その理由がまだよくわからない。


プロフィール:

梅津庸一
http://www.arataniurano.com/artists/umetsu_youichi/