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齋藤祐平の場所と出来事

執筆 : 石井香絵

*2010年12月掲載。


羅布泊(ロプ・ノール)とはスウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンが発見した、中国タリム盆地にかつて存在していた湖の名称。地形の変化に合わせて1600年周期で移動する珍しい性質から、「さまよえる湖」と呼ばれる。「羅布泊」というサイト名は、以前からこの湖に興味を示していた探検記好きの齋藤が、ウェブ上に現れる自身の作品閲覧サイトをさまよう湖のイメージに重ねたことに由来している。データ化された作品群がインターネットを漂う姿は、羅布泊の儚くも強烈な存在感に通じているという。作品をとりまく外的環境に着目し、独自の視点から全体のテーマを形づくるやり方は齋藤の得意とする表現手段である。だが一方で、純粋に絵のみをじっくり見せる機会についてはほとんど設けられてきていない。まとまった点数の作品を閲覧目的で公開する場としては、このサイトが唯一のものである。


EXHIBITION_flyer
『EXHIBITION!!!』
スキマの凹凸_flyer
『スキマの凹凸』

齋藤祐平は作品そのものだけでなく、出来あがった作品の見せ方まで含めて表現を思考し続けてきた作家である。初めて公に向けて作品を制作したのは大学時代、連載もののフリーペーパー『ODDS & ENDS』(ガラクタの意)を作り、置き場所を探すため東京に出はじめた時のこと。在籍していた東京工芸大学芸術学部のキャンパスが厚木の山の方にあったため、都会に出たいという欲求が主な原動力になっていた。また専攻したメディアアート表現学科には絵を描く授業も公開する場も無く、自発的に作品発表の機会を作るしか無かった当時の環境も作用している。初めて行なった個展の場所は大学の空きロッカー。夜中に忍び込み無断で絵を展示した。その後も大学の空き部屋での個展『スキマの凹凸』や、フリーペーパーを通じて知った経堂のギャラリーカフェappelでグループ展『EXHIBITION!!!』を企画している。

Paper Talk
『Paper Talk』の様子

絵を見せるための手段であったフリーペーパーは、卒業後より汎用性の高い媒体として機能しはじめる。きっかけは高円寺の古着屋、素人の乱2号店で個展を開いた時、店主の山下陽光に「もっともっといろんなことが出来る」と背中を押されたことだった。とにかく何かしなければという思いを強くした齋藤は、フリーペーパーを使って街中の至る場所で展示を試みている。それは時に自動販売機の下であったり、古本屋の100円ワゴンの中であったり、『TOKYO』という小サイズのフリーペーパーを大阪で大量にばらまく行為であったりした。定期的なイベントとして『Paper Talk』という自作印刷物の交換会を開催したこともあった。他人と気軽に交換できることや、作品の安全が保障されない街のすき間を活用出来るなど、複製物の特性を使った展開のさせ方にこの頃から自覚的になりはじめていたという。

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街中での表現は07年に平間貴大、アサと結成した「Night TV」の活動へと発展する。漫画喫茶にある素材を使って一晩滞在制作し、出来た作品を翌日コインロッカーの中に展示する『Urban Camp Program』。ブックオフの本に作品を挟み込み店内で展示する『BOOKMARKS』。秋葉原駅構内にAKB48のシールが4800枚貼られた時は、「Night TV」3人の似顔絵を追加して即興で展示『4803』(4800+3人)を行なったこともあった。街角のゴミ捨て場に絵を展示(放置)し、そのまま回収される『Dump Site Action』はおそらく、「もしもゴミ捨て場で展示をするなら、作品はそのまま回収されなければいけない」という作品と場所との主従関係を逆転させた発想に基づいており、展示環境に意識を巡らせてきた齋藤の活動を象徴的に表した展示形態である。

神保町間欠泉の様子
『神保町間欠泉』の様子      撮影:皆藤将

08年には単独の活動として、商店街の空き物件を一ヶ月間借りて個展『23時59分』を開催。それまで作ってきた作品をまとめて展示し、一時的にギャラリースペースと化した空間を「場所と出来事」と名付けた。この命名に明らかなように、齋藤は次第に展示場所だけでなく、作品が生成され、観る人に届くまでの出来事にも表現の可能性を見出していく。淺井裕介とのユニット「聞き耳」は二人で行なったライブペイントがきっかけで結成され、共同作業によって偶発的に作品が生み出される過程を見せるイベントとして以後も継続的に開催されている。別府での滞在制作『混浴温泉世界 別府現代芸術フェスティバル2009』の際は現地まで鈍行列車で向かい、道中の出来事として集めたチラシや切符、車内で録音したテープやスケッチを素材に大作を作り上げた。直嶋岳史が主催する『公園コンサート』に参加してからは「絵を楽器(演奏されるもの)として捉える」という新たな見方を思考しはじめる。即興で紙芝居を作って披露する、あるいは木の枝に絵筆をひもでぶら下げ、足で操って絵を描くなどパフォーマンスとして描く行為を展開させている。お絵かきピクニックとして井の頭公園で始まった『井の頭間欠泉』は、続く高円寺のスペース素人の乱12号店での『歳末間欠泉』、神田美學校での『神保町間欠泉』と参加人数が倍単位で増えてゆき、集団お絵かきによってその日中に展覧会が立ち上がる様を見せた。

作品の見方を問う試みとして、作品を梱包として見る企画『COMPO』も行なった。20人が参加し、送られてきた郵便物を好きなように梱包して次の人に回すというもの。半年後にはA5サイズの郵便物が洗濯機並の大きさに変貌していたという。史跡「吉見百穴」に作品を展示するためのプランをそのまま展示した柏の旧映画館での『吉見百穴代入』は、埼玉県に実在する古墳「吉見百穴」を絵を設置(代入)するための方程式とみなし制作した作品。身の回りの様々なもの・要素を方程式と見なし、絵を代入物とする発想は柏のギャラリーislandの天井の梁を使った展示『代入式分解によるコンサート会場』へと発展する。さらに渋谷のギャラリー20202の個展では中央の仕切りを両面一枚ずつのLPと見なし、音に関連した展示『やまびこ(2LP)』とするなど会場内での工夫も見られる。齋藤が企画した神保町のスペース路地と人でのドローイングのグループ展『Circle X』は、ドローイング作品に魅力のある人を集めたいという思いから実現した展覧会であったが、そこで展示された自分の作品がどう見えるかという興味も一方にあったという。


絵を見せるために街へ出た大学時代の経験は、そのまま作品の見せ方を思考する現在の作風に通じているようである。なぜこれ程までに外部環境へ注意を向けるのだろうか。本人曰く、「絵は手を動かしていれば出来るから、それだけでなく作った後のことも含めて自分の表現にしていきたい」とのこと。「描くことは好きだけど、どこか醒めたところがあるかもしれない」とも述べている。おそらくそれは醒めているというよりも、元々齋藤にとって描くことがあまりに自明な行為ゆえ、それ以上付け足す理由が無いということでもあるだろう。作品制作に思い悩むことも作品を通して伝えたい主張も無い分、出来上がったものをどう使うかという方向に興味が向かっていくようである。 このことから齋藤の個々の作品は自然とインスタレーションの一部として、全体のコンセプトのもとに展示されることが通例となっていた。しかし一方で、これまで制作された作品が膨大な点数に及んでいることも事実である。それぞれの作品が持つ文脈(出来事)が無効化され、一点一点が等価に並べられた「羅布泊」の作品ページを眺めた時、齋藤祐平の画風というものに改めて気づかされることになる。


齋藤の作品は一見して同一人物が描いたとは思えない程多様性があるが、基本的には線とコラージュの人という印象を受ける。線の美しさが特に際立っているのはボールペンやマーカーのみで描かれたもの。幼少期に「絵というよりはレタリングのような、きっちり線を引くことが得意だった」という先天的な特技が今も継続しているのを感じる。コラージュ作品の雑多な印象は瞬間的に人の目を楽しませる効果があり、スタンプやカセットテープのシールといったチープなものに至る、素材としての平等な興味が窺える。アクリルやマーカー、鉛筆など一枚に様々な画材が用いられる作例も多く、たとえば≪横風注意≫の場合は「ポスターカラー、ペンキ、インク、カラーインク、修正液、ラッカースプレー、色鉛筆、マーカー、水彩」が使用されている。これも素材を雑多に取り入れている点でコラージュ的な発想といえるだろう。こうした傾向は、表現媒体に差別を設けず作品の見せ方を常に思考する齋藤の後天的な性格に通じているように思われる。

赤帽の男
≪赤帽の男≫

線のみで構成された作品には緊張感があるが、技巧には固執しておらず、たとえばペンを一度に3本持つなど何かしら不自由な条件を加えて描いているものもある。全体的にも絵の具の飛び散りや何気ない線など、偶発的な要素を積極的に取り入れているため作風としてはむしろ大らかである。さらに線のみの作品は空間が多くシンプルで、緻密な構成で画面を埋め尽くすようなことがないためか、不思議と完成という言葉を使う気にはならない。コラージュ作品は逆に画面いっぱいに構成されていることが多いが、いくらでも追加出来そうな感じがしてやはり完成という言葉を使う気にならない。他人が勝手に描き加えたとしても、気にせず上から描き潰してしまうか気に入れば活用してしまいそうですらある。このような作品の不完全な印象が、齋藤祐平のつかみどころのなさを形づくっているように思える。

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≪夜笑う≫

しかし、つかみどころのなさの最たる要因はやはり、作品に頻出する顔の表情であるだろう。齋藤がモチーフとして最も多く使っているのが顔である。どの作品の顔を見ても、何を考えているのか推測出来ない。絵が出来るまでと出来てからの出来事は演出されていても、画中の感情的な出来事を読み取ることは困難だとも言えよう。看取できるのは作り手の顔に対する造形的な興味に留まる。さらに顔でないものに目をつけるなどして擬人化させることはあっても、コラージュとして外部から人間の絵や写真を取り入れる時には顔を隠していることが多く、全体として人間的な表情が画面に登場することは無くなっていく。見方のひとつとして、顔に注意を向けることで多くの発見が出来そうである。

電波障害1
≪電波障害1≫

最後にもう一つの見方として、作品タイトルに注目してみることを提案したい。絵そのものを純粋に見せる目的で作られた本サイトは、結果的に過去のどの展示形態よりもタイトルの際立つ構成となっている。実は作品に最も近い「タイトル」という外部情報は、齋藤のこれまでのインスタレーション的な展示空間においては隠れがちであった。しかし改めて一点一点に付けられていたそのタイトルを見ていくと、≪呆気≫、≪浅いプール≫、≪某博士≫、≪電波障害1-4≫など個性的な表現が目立つ。出来事が削ぎ落とされた結果、作品を規定する最小単位であるタイトルが浮き彫りになった場所として、ここで閲覧を楽しむことも出来るだろう。